20090418

映画 「おくりびと」

映画「おくりびと」のDVDを買いました。

期待以上の素晴らしい出来栄えで、とてもよい時間を過ごすことができたと思います。

音楽は久石譲
チェロアンサンブルのバックミュージックがとても自然で、それでいて自分の存在をきっちりと主張しているにもかかわらず、映画の雰囲気と完全に一体化していたのに感動しました。


2008年に、まだ日本にいたころ、小乗仏教の本をたくさん読みました。
それによって、自分の中で死生観(=人生観)が大きく変わりました。

すべての人はやがて死ぬという現実と真正面から対峙したことが、僕の価値観を大きく変えるきっかけになりました。

世の中が正しいと認めたことをすることが、自分を幸せにするわけではない。
自分が正しいと認めたことを、満足いくまですることが、自分を幸せにすると今は思います。


「おくりびと」を見た感想を、二つの側面からコメントしてみます。

●観念が引き起こす差別的感情
本木正弘演じる小林大吾は、友人からも妻からも、「そんな仕事辞めてくれ」と言われます。
見知らぬ人にも「あんな仕事でもして罪を償え」と間接的に侮蔑されます。
「死」=「穢」という、日本に特有の思想と心理的拒絶を、うまく表現していると思います。
しかし、その後、妻も友人も、昔馴染みの銭湯のおばちゃんの死とそれに携わる大吾の姿をきっかけに納棺師という職業を受容することになります。
このことは、どう説明がつくのか。

「こんな仕事」と侮蔑している時、彼らは「死」を観念上の存在としてしか捉えていません。
観念の世界では、死=穢れであり、納棺師=地位の低い仕事なのでしょう。
しかし、銭湯のおばちゃんの納棺を済ませた時、彼らは死と納棺の仕事を観念上ではなく現実の問題として捉えています。
彼らは、そこではじめて、納棺師という仕事を等身大で評価することができたのです。

すこし私の話をします。
私の母方のいとこのお兄ちゃんの子供が、奇形かつ未熟児で生まれました(もうなくなっています)。
私は、母親に言いました。
「その子と一度会ってみたいなぁ」
でも、母親はそれを許しませんでした。
不謹慎な事だと思ってのことだと思います。
彼女の本心はわかりませんが、「おおっぴらにできない話題」だったのではないでしょうか。

でも、私の心情はそうではありませんでした。
母の話を聞いていて、彼の命が長くはないことも、外見が受け入れがたいこともわかりました。
それもわかった上で、だからこそ、今あっておかないと彼には二度と会えないことが、とても残念に思えました。彼と私の違いは、生きる時間が長いか短いか、ただそれだけなのですから。
だからこそ、生きているうちに、「初めまして、ようこそ。短い時間だけど、楽しんでいってね。」と言っておきたかった。

いとこ夫婦も、その子を移動保育器にいれていろんなところへ連れていったそうです。
「せっかく生まれてきたのだから、生きているうちにたくさんのことを経験させてあげたい」
そんな理由だそうで、私の感覚と比較的近いと思っています。

母の「不謹慎である」という感覚は、「死」=「穢れ}と同じで観念的な問題です。
目の前の現実を直視した時、そこにはただ一つの命があり、または遺体があるだけです。そこに穢れや不謹慎といった感覚を感じるのは、理解できなくはないものの、正しい判断ではないと思います。


●儀式が引き起こす心の満足
映画の中では、納棺師は、時間をかけて丁寧に、遺体の納棺準備を進めます。
それは、まさに儀式と呼ぶにふさわしく、手順が決められ作法があり、一つ一つ確実に仕上げていっています。

しかし、ここで考えてほしいことがあります。
最終目的は、衣装を着替えさせて化粧を仕上げ、棺に入れることです。
まどろっこしい手順などせず、個室で身内の同性がちゃっちゃと着替えさせれば済むことです。
それこそ、どうせ燃やしてしまうのだから、そのまま棺にいれてもいいじゃないかとも思う人もいるかもしれません。
それなのになぜ、このように作法に沿って時間をかけて、納棺の準備をするのでしょうか。

このことについて、私は次のように感じました。

「心の満足を引き起こす作法」
洗練された動作を見たことはあるでしょうか。
日本には、書道、茶道、華道をはじめとするさまざまな所作法があります。
そのどれもがそうですが、本当に評価されている所作法は、動作に無駄がなく、美しささえあります。
必要十分な道具を用いて、手順にしたがって動作を進めると、動作をおこなっている側はもちろん、見ている側も、不思議な満足感に包まれます。
気持ちがゆったりと落ち着いて、あわただしかった心が安らかになっていくのを感じることができます。

納棺の作法も、それと同じことではないでしょうか。
洗練された作法に従って、ゆっくりと、それでいて丁寧に作業を進めることで、そこに居合わせた人々は、気づいたらその動作の優雅さに引き込まれ、あわただしかった感情が平静を取り戻していく。
作法が進むにつれて心が整理され、別れに向けた準備が進んでいく。
すべての所作が終了すると、「終わった」満足感がこころを満たし、故人を送り出す心の準備が整う。
そしていよいよお別れとなる。

世界のどの国に行っても、その国にあった儀式があり、それが古代から継続して行われているのは、こうした「心の満足」を引き起こすためではないでしょうか。

私の親も年老いてきました。
遅かれ早かれ、今生の別れをする日が来ます。
その時に、どんな形で心の満足を得て気持ち良くお別れするか、少し考えを温めておきたいと思います。

2 件のコメント:

  1. お魚好きのナオコです☆2009年4月20日 12:28

    ふと思ったんだけど、兄やんが中国に行く前、金山で飲んだとき、「自分の価値判断を信じれるようになるっていうことが大人になるってことなのかなーって思い始めた」って言ったら、「いい本があるから今度もってくる!」ってあなた 言ってたざますよね?!

    いやはや、ブログ読んでて、GWにでも実家に帰ろうかなーなんて思えてきました。

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  2. あの、その、えっと、、、その本は今一緒に中国に来ております(笑
    たまに読みなおすと、気持ちが新たになるんだよねぇ。

    安いのでぜひお買い求めくださいませ!
    「ブッダ-大人になる道」(ちくまプリマー新書)です。

    他にもアルボムッレ・スマナサーラの著作はたくさんありますが、内容は同じなので、2,3冊読めば大体わかります。

    ぜひ実家に帰って親孝行してきてくださいませ!

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